確かに彼女はそこにいた。
それほど広くない土間にビールケースがいたずらに積み上げられたその大衆酒場に、決してふさわしくない彼女は、黒髪のロングヘアーに、ベルベットの臙脂のドレスをまとい、およそ10cmの黒いヒールに足をのせ、存在感のあるバストを強調し、人を引き付ける大きな目をしていた。
絶世の美女だ。
「スコッチが飲みたいわ、それもダブルで。」
確かに彼女はそう言った。
やれやれ、こんなことがあっていいものか。思わず隣にいた僕は彼女に向って言った。
「ここにはスッコチはない。ここにあるのはいくらかのビールと、焼酎。そして日本酒。あとはくたびれたおじさんばかりだ。」
「スコッチが飲みたいのよ。」
「君は場所を間違えてはいないかい。スコッチはここにはない。フォアローゼスだって、ジャックダニエルだって、ありはしない。ここは確かにタフな場所だ。しかし、ここにはフィリップマーロウだっていやしないんだ。」
彼女はそれには応えず、ただきれいな髪を片手で掻き上げて、きれいな形をした耳を見せた。
それはとっても魅力的な耳だったし、何なら近くのリカーマウンテンまでスコッチを買いに走ろうかと思わせるほどのものだった。少し時間をおいて彼女は口を開いた。
「そう。ないのね。スコッチは。」
「どうしてそこまでスコッチにこだわるんだい。」
「大したことじゃないのよ。スコッチが飲みたいと思ったところにこの店があった。足は自然とこの店に向かい、今私はここにいる。ただそれだけの事なのよ。」
「ただそれだけの事。」
「そうそれだけの事。」
僕がビールを飲むことについて考えてみる。僕がビールを飲みたいと思ったところに、もしこの店があったら僕はやはり入ってしまうだろう。
そして、一言「ビールが飲みたいんだ」きっとそう言うに決まっている。滝の水がとうとうと落下するように、それはごく自然な事だった。
「少し考えてみたんだけど、君の言うことは至極まっとうな気がする。」
「あなたに何がわかるのかはわからないけれど、今私がわかるのはここを出てスコッチを飲める場所を探さないといけない。それだけなのかもしれないわ。」
そう言うと、彼女はヒールをカツカツと鳴らし大衆酒場を出ていった。
それから僕は焼酎をオンザロックで頼み、するめを肴に半分ほど一気に飲み干した。
あれから彼女は、スコッチが飲める店を見つけたのだろうか。それを僕が知る可能性は少ないし、知る必要もない。ただ彼女がこの店にいたという普通でない状態が今もこの酒の味を少し狂わせている。
あの時僕は、一緒に店をでてスコッチの飲める素敵な場所を探すべきだったかもしれない。ただそうさせない完全な雰囲気を彼女は持っていた。
それは、完全であり完璧であり何一つブレも感じさせない完成されたものだった。
あれから僕は、酒場で焼酎を頼むときほんの少しスコッチの事を考える。
そしてきれいな耳の形についてほんの少し考える。
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一人で立ち飲みをしていると暇なので、こんなことがあったらなあと考えることもある。
いつかあるかもしれないし、きっとないかもしれない。
“column:福田管”