一休和尚(宗純)が過ごした寺としても有名な、京都紫野の臨済宗大徳寺。その塔頭(たっちゅう)で、大徳寺内で最も古い寺が「龍源院」だそう。ここには4つの枯山水の庭園があり、名勝の庭園として知られている。そんな庭園の魅力を、一休和尚のお言葉を添えて散文的にいくつかご紹介。
禅はわからないけれど、なにも考えない時間の良さを知りました
5畳ほどの小さな和室。小さな机に、ちょっとした花が添えられただけの何もない空間。普段なら窮屈に感じそうなこの部屋も、障子が開いているだけで、心がふわっと軽くなるような開放感が得られる。
モノで溢れた空間をさらにモノで満たしても、不安や寂しさ、余計な考えなど、どんどん積もっていくだけで、本当に欲しいものは得られないのかもしれません。何もない空間で、ちょっと扉を開き、開放感を得る。そんな場所だからこそ、一休和尚のきらりと光る俳句や名言も、生まれたのかもしれません。
「つまらぬ争いの根本は、永遠の過去から引き継いだ人間の愚かさ、つまり自分に執着する心情なのだ。それをいつまでも担いで歩けば重かろうに。蝶のあの軽々とした姿に比べて何と愚かなことか」
「東滴壺(とうてきこ)」この一滴が大海に通ず。日本一小さな石庭で大海を思う
四季で変化する陽の当たり方、雪の積もり方など日本一小さな石庭を静かに眺めていると、時の移ろいを知ることができる。
この庭は一滴一滴が大海につながるという禅の悟りの世界を表現しているのだそう。全ては日々の積み重ね、その先にあるのは大海か後悔か。日々の努力は報われないかもしれませんが、心の持ちようは変わります。後悔はせぬよう、自分の満足できる毎日を過ごしたいものです。
「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、踏み出せばその一歩が道となる、迷わずゆけよ、ゆけばわかる」
このバラバラな石の配置はなんだろう。それでも美しいと感じる不思議「一枝坦(いっしだん)」
まっすぐ伸びた廊下に腰掛け、枯山水の「一枝坦(いっしだん)」を眺める。一見するとばらばらに配置されたように見えるけれども、それが全体として調和し、美しいと感じてしまいます。
それはどの角度から見ても同じで、崩れているように見えるのに美しい。
規則や、周りの人に合わせていると、ぱっと見ると全体的に整っているように感じますが、心の内面はひとりひとり違うものです。もしかするとそれは動物の姿としては不自然なのかも。
もう、周りのことを気にするのをやめて、思ったことを思った時にする。そんな生き方をしていると、その人だけでなく、周りにいる人も美しく見えるのかもしれません。あ、もちろん人に迷惑をかけない程度に。
「経文に気をとらわれてこだわりすぎると、有害なものになる。私も経にとらわれてしまって、犬や猫にも及ばない。犬でさえ仏殿に向かって、何の迷いもなく小便を引っ掛けるのに」
雨が降っても、晴れていても、その時々で違った魅力を見せる「龍源院」を訪れて、ゆったりと何も考えない時間を過ごしてみると、意外とリフレッシュできるかもしれません。
寺院データ
龍源院
一休和尚のひらめきが降りてきそう度 ★★★★★
■電話:075-491-7635
■住所:京都府京都市北区紫野大徳寺町82
■拝観時間:9:00〜16:30
■拝観料:350円
■駐車場:有(有料)
“Text,Photo:中川 直幸”